ロックバンド「BUCK-TICK(ばくちく)」のボーカル・櫻井敦司さんが、10月19日のライブの途中、体調不良を訴えて病院に緊急搬送され、そのまま帰らぬ人となりました。
芸能界から多くの悲しみのコメントがSNSを通して発表されています。
櫻井敦司さんはどういう人生だったのでしょうか。生い立ちを振り返りながら功績をまとめました!
櫻井敦司のwikiプロフィール
出生名 櫻井敦司(さくらい あつし)
生年月日 1966年3月7日
死没 2023年10月19日(57歳)
愛称 あっちゃん、魔王
学歴 群馬県藤岡高等学校卒業
職業 ボーカリスト、作詞家
事務所 BANKER
櫻井敦司の経歴
1984年 | BUCK-TICKの前身バンドである「非難GO-GO」を結成
その後、バンド名を「BUCK-TICK」に改名。 |
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1987年 | InvitationよりBUCK-TICKのヴォーカリストとしてメジャーデビュー |
1991年 | スタイリストの一般女性と結婚を発表。長男(後の遠野遥)が生まれる(のちに離婚) |
2001年 | 今井寿、PIGのレイモンド・ワッツ、KMFDMのサシャ・コニエツコと共にインダストリアルバンド「SCHWEIN」を結成 |
2004年 | 本格的なソロ活動を行い、シングル3枚、アルバム1枚をリリース
一般女性と再婚したことを発表 |
2015年 | 映画『ウーマン・イン・ブラック2 死の天使』へ楽曲「MORTAL」を提供 |
2019年 | ここに説明文を入力してください。ミュージックステーションに椎名林檎と共に出演 |
2023年 | 10月19日23時9分、脳幹出血のため病院で死去 |
バンド内では作詞を担当。幅広い音楽性の内包された楽曲を独特の簡潔な抽象性でまとめる役割を担っていました。
櫻井敦司の生い立ち
父親の暴力
顔立ちが父親と似ていると語っていた櫻井さん。誕生日も血液型も同じとのこと!
そんな父親は家族に暴力を振るうことも度々あるほど、不器用で愛情表現が苦手な人だったそうです。
この暴力に櫻井さんは大人になるまで悩まされていたそうです。
櫻井さんが18歳の時に父親は亡くなっています。
学生時代
群馬県立藤岡高等学校に通っていましたが、ほとんどしゃべらないクールな生徒だったようです。
他校の仲間とつるむことが多かったのですが、傷害事件を起こして警察沙汰となり、次第にそのグループの仲間と疎遠になり、学内で友達ができるようになりました。
タバコ屋「今井商店」の息子の今井寿と、そこを溜まり場にしていた星野英彦・樋口豊と出会ったことで、櫻井敦司さんはBUCK-TICKの前身となる「非難GO-GO」のバンドを結成されたそう。
上京
バンド活動が充実し始めた頃、父親が他界し、母への気兼ねから上京を躊躇していたが、母親の後押しで、上京。
そんな母親もBUCK-TICKがブレイクし多忙を極めていた1990年に亡くなっています。
一説によると、櫻井敦司さんがお化粧をしたのは、亡くなった母親を真似ているのだとか・・・。
櫻井敦司の父親がDVでなかったらマザコンではなかっただろう。死んだ母をマネて化粧することも狂うこともなかっただろう。名曲も生まれなかっただろう。同じく父が中学までDVだった私が形而上流星で涙することも、息子麺を育てたいと思うことも、姑根性を味わうこともなかっただろう。全部繋がってる
— 名も無きダリア (@RYUGEN_D) March 31, 2023
櫻井敦司さんには兄がいましたが、父親が亡くなった後に家族と一緒に上京したことで、絶縁状態が続いていましたが、後に和解。
このお方が櫻井敦司(魔王)の兄様でおられる pic.twitter.com/YzXsntfIJp
— MAMA (@MAMA_OFTHEDEAD) February 17, 2019
1994年に櫻井敦司さんが「笑っていいとも」のテレフォンショッキングで出演の際、兄より花環が贈られていたこともわかっています。
まとめ
櫻井敦司さんは早くに御両親を亡くし、精神的に辛い日々でもありましたが、亡くなる直前まで第一線で活躍されていました。
兄との絶縁状態を回復させることができて良かったです。
櫻井敦司さんのご冥福をお祈りいたします。